和心の会1月ありがとうございました。

和心の会
1月14日(日)

今月の和心の会、お食事はこちら

平成という時代が今年最後になってしまいますが、その平成30年の1月にあげられたテーマは「原点」でした。

今回も定員いっぱいの皆様にお申込み頂き(キャンセル2名、キャンセル待ち1名参加)、お手伝いご奉仕の皆様含めて今年初めての和心の会も賑わいました。ありがとうございました。

今回のテーマは「原点」…

慌ただしく目の前が忙しい、というときは、そもそもその始まりのきっかけ、なんらかの決断があって今の事をやっているはずなのですが、ふと、大事なことを忘れてしまっているような気持ちになります。果たしてその決断も正しかったのか、どうかも考える暇もないかもしれません。

いったい、そもそもの自分の原点とは、なんだったのでしょうか。もし、それを明確に言葉にできる人がいらっしゃれば素晴らしい、と思いますが、なんだかぼんやりとはしている、、、或いはこれが原点と思ったことが変わって、やっぱりこっちが原点だった、というような気持ちにもなってしまう、ということはありませんか?
あるいは、そんな事考えたこともない、という方もいるかもしれません。

今日もまた、全てを解決する答えはみつからないかもしれませんが、何か一つ、セアロのお話やこの空間、今日、共に過ごすこの皆さんとのひと時、そして料理、音楽、、、、五感のどこからでも感じ得られたことを持って帰って頂けたらいいなと思い、セアロ師のお話に耳を傾けてみました。

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「原点」 セアロ師のお話メモ


  • 「原点」というのは、元々は、山奥の岩から、湧き出てくる石清水、最初の一滴を「原点」といったのがはじまり。今、認識されている意味とは異なる。
  • 親からの種を頂き、どう芽が出てどう花咲かせるのか。そこがいわば自分の原点。自我が芽生えてきた時が、自分の原点。
  • それまでは、親がつくった原点の中にいただけ。親の原点を見てまねても、自分の人生はできない。自分自身がどう芽を出し、実を育てるものでなければ。
  • そこを原点、と考えなければ、今の境遇、環境、条件のせいにばかりして、都合のよい言い訳にしてしまう。
  • こういう所に生まれた、こういう親に育てて頂いた…、それは最初に与えられたものであり、自分が出発したところが原点ということではない。そこでなければ生まれてこれず、生きるための条件が必要だった、その中で生きやすくしてもらっただけ。
  • 自我に目覚め、自分はこうする、と、自分で行動起こしはじめたとき、そこが原点であり、自分の責任で自分でやっていかなければいけない。
  • 自分の責任とは、自分で生まれてよかった、と思える自分になれるよう、果たしていくだけ。
  • なぜ、条件にこだわってばかり、条件のせいにばかりしている自分がいるのか、そこを考えなければ。人にどう見られているか、その相手によって、甘えたり、我慢したり、えらそうにしてみたり。そう言える環境だから、そうしているだけでしょ。生きやすい人が与えてくれた環境の中にいるとそうなる。そして、そこから抜け出せなくなる。甘えて生きているのに、文句を言いだす。
  • 与えられた環境であっても、自分でその環境を勝手に解釈し、作り出し、さらには、条件までつけるから。こうならこうして欲しい、ああならこうでなければ嫌だとか。
  • なぜ、本来の自分で自分の環境を作ろうとしないか。そうしたら、自分の原点で生きられるのに。自分の原点で行動し、自分でどんな果実が実ったかが見えてくる。
  • このままでいいの?と思い始めた時。これやったらこう言われる、そうやったらああなる、と楽な方、楽な方に決めてきたでしょ。人間はついそれが生きやすい方法だと思って求めてしまう。単なる寝て起きて食べるだけの生き物に成り下がったらだめ。
  • 友達、という存在。分かってくれるだろうと思っても、分かってくれない。人の関係、全て同じ。いつか分かってくれるだろう…、絶対ないよ。分かってくれません。友達だったと思ったのに…って。友達になってね、なんてお願いしないでいい、品格を持ちなさい。友のふりして、どう思われるか、分かってくれるかどうか…、なんて、無駄な時間、人生の大事な時間を過ごしたらだめです。
  • 離れていても、ふとその人のことが浮かぶような心のゆとり、それが長いつきあいになる。原点を大事にしている人は、そういうゆとりがある。
  • このお正月、ここをまた新たな原点にして、外から認められる成功や失敗に振り回されないように。