2017年11月23日木曜日

和心の会11月ありがとうございました

今回の和心の会は、九州や北陸からの方が多く参加してくださいました。
先月のテーマは「愛」でしたが、今月は「いつくしみ」です。
ダイニングの「慈しみ」をテーマにしたメニューはこちら

「慈しみ」というと、どんなことを皆さんは思い浮かべるでしょうか。「慈愛」の「慈」、「慈悲」の「慈」です。
いつくしむ、とは、優しさ、或いは同情との違いはなんなのでしょう。これは必要なことなのか、不要な事なのか…、いいこと、正しい事、なかなか見極められないですよね。
いい人するな」、とセアロはよくおっしゃいますが、優しくすることは良くないのでしょうか。いい人やって、結局むくわれない、と感じたり、損した、と感じるようなことはありますか?せっかくその人の事を思って伝えたつもり、やってあげたつもりでも、肝心の相手には伝わらない、理解されず、なぜ?と言いたくなること、ありませんか?
セアロから何度となくお話を伺っていても、まだまだそういう感情が起きてくるのは何故でしょう?また、セアロはよく、「(人の事を心配するのではなく)ほっとけー」とおっしゃいます。本当に放っておいていいのでしょうか? 
そんな疑問をセアロにおたずねしたところから、ご講話を伺いました。

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<いつくしみ>

●日本語には、英語では訳しきれないという言葉が多い。日本の言葉は深みがあり美しい。言葉を訳し訳されしているうちに、本来の意味ではなくなってしまう。
●なぜ、いつくしむ必要があるの?、なぜ愛してもくれないのに愛す必要があるの?愛しても~してくれないのに…、と違う価値観からの受け止め方をやっているうちに、すでに元の意味から違うものになってしまっている。なんでいつくしむ必要あるの、と言っている間はそもそも、慈しむというところまでも行ってないのに。なぜ、と思うなら、「そもそも自分がそこまで行ってないレベルだから」と思えばいい。
●我々にはもっと繊細で奥ゆかしい気持ちがあったはず。それを取り戻さないといけない。それをなくしたら、何も残らないのではないか。
●今残っている本来の「慈しみ」を、しいていえば、命かけて産んだ子がいたとしたら、その生んだ『瞬間』の意識、喜びが、本物の慈しみだろうね。一瞬だけ。
●それはとても繊細なもの。たとえば、子どもを生むとき破水して、自分の命にかえてでも生みたいと願う、私の命はいいからと願う…、しかし、だからといって自分がいらない、ということではない。その新たな命を自分が守り、育てなければいけない。自分でなければ、自分がやらなきゃいけないと思っているはず。
●だから、わが子だけにあるのが慈しみかといえば違う。他人も同じ気持ちで思えたとしたら、それこそが本当の「慈しみ」だろうね。
●戦後70年、日本で覚えさせられた今の薄い意識。優しくしたい、してもらいたい、好きになりたい、愛したい、愛されたい…。そんなものは、「慈しみ」からほど遠い。
●これぐらいでいいだろう、という意識を学習しすぎてきた。人に言われたことを自分のものにしすぎた。「あの人がこういうのだから、これでいいだろう…」、人に任せっぱなしで、人に責任転嫁までして。自分で判断しようとしない。
●慈しみの究極は、「私で生きてよかった」と言える自分になれば、自分自身を慈しむことになる。そういえる自分になろうよ。
●今我々が吸っている空気、みんなのものだろ。あの人が吐いた息、この人吸ってる、この人の息あの人吸ってる。共有しているのに、互いに意識もしてない。お天道様とおんなじ。万人が共有できる意識もされないような恵み。それが慈しみだろうね。
●仏像の目をみてごらん。自分が楽しい時も、悲しい時も、じっとみている。ただ、じっと見ている。同調して悲しんだり喜んだりしない目。仏の目はじっとみるだけ。どんな時でもじーっとみている。慈しみに、How to などありえない。じっと見られる一人ひとりの立ち位置も違うのに。慈しみは方法じゃない。近場で簡単に見つけようとしても見つからない。でも、すでに在る、遠くにある目、それが慈しみ。